平成生まれのグルーヴ

ポップカルチャーについてです。最近見たもの、聴いたもの。たまに読んだもの、行ったところ。

夏休み

大学始まって初めての長期休暇である。これだけ自分のための時間が用意された1ヶ月半は初めてだった。バイトも早く始めて自立しなきゃと思いつつ、なかなか決まらず結局映画を見まくり、たまに友達と遊ぶという消費だけの生活である。

相変わらず映画はたくさん見た。映画館にも行ったのだが、家で今まで見てなかった旧作を見る時間にかなり費やすことができた。フィルマークスに出来るだけ1、2行くらいでも感想を書いているのだが、全部記録するのも億劫になり、感想がピンとこないものはスルーしてしまう。ざっと記録してある思い出せる範囲ではジャームッシュ『オンリーラヴァースレフトアライブ』、スコリモフスキー『早春』、カサヴェテス『チャイニーズブッキーを殺した男』、クレイトン『回転』、相米慎二台風クラブ』『セーラー服と機関銃』などは初めて見て、とても素晴らしかった。特に『台風クラブ』は個人的に映画に求めるものが全てあるような映画で、オールタイムベスト級に好きになってしまった。青春を狂ったように謳歌しながらラストにその祭りの終わりの淵に立たされる作品が大好きだと改めて感じる。前面にイノセントやデリケートさが出すぎていないのもいい。

 

さらに映画館で見た映画でいうと、『寝ても覚めても』と『きみの鳥はうたえる』のインディー邦画二本が死ぬほど素晴らしく、濱口竜介三宅唱というミニシアター系の若手監督の二人が商業デビューで、デリケートで言語化しがたい感情を浮き彫りにする恋愛映画を撮ったことが印象的だった。あと、『ザ・プレデター』や『検察側の罪人』など世間では賛否割れてる作品もかなり楽しめたので充実していた印象だ。

他にも、渋谷ヴェーラのフリッツ・ラング特集で見た『死刑執行人もまた死す』と『恐怖省』が素晴らしかった。良質なフィルムノワールを数多く手がけるラングだが、そんな彼の作品の中でも一番、多数の恐怖や政治的なメッセージが込められている作風でとても面白く、特に前者は群衆の描き方と事件の顛末、ラストにかかる歌の皮肉な後味といい、ラング作品でもかなり好きな作品になった。画面構図や影の使い方に凝っているラングの映像はとても映画館という真っ暗な密室で見ることにより映えていた。

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死刑執行人もまた死す』(1943年/米)

映画以外にもいろいろ見ていたのだが、思い出せる限りだと、今まで日本のアニメ文化に全く触れてこなかった分、まずは自分の好みのところからということで湯浅政明今敏などのマッドハウス関連のアニメをストリーミングに入ってる限りたくさん見た。『四畳半神話大系』の駆け抜けるような素晴らしさはもう語るには及ばないと思うが、このような「ただ繰り返すことだけ」の日常を描く日本のドラマも増えていいと思うのだが。それにしても今敏の『妄想代理人』のカオスにはただただ驚かされ、個人的にはなかなかこういうモチーフや難解に振り切った作品は苦手なのだが、ラスト2話はカオスとこの物語にある本当のプロットに気づかされ少しグッと来てしまった。居心地が良く未来永久に続く自分の世界を生きていくと選択した主人公が、クライマックスで現実に戻り有限なその時間を過ごしていくことを決断する作品にはやはり弱い。

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妄想代理人』(2004年/日)

カオスといえば、今まで手をつけてこなかった『ツインピークス』を見始めた。世代が世代ならほとんどの人が見ているであろう伝説的ドラマを今更見始めるのもあまり気乗りしなかったのだが、新作の『ツインピークスthe return』が猛烈に見たかったのでこの機会にと思い立ちチャレンジしてみた。まだ数話残っているのだが、リンチ作品としてかなり身構えて見た感じとしては、意外に話のプロットがはっきりしていて、脱線やメタファーのカオスはあれどそこまで話を見失わずに見れていて安心している。今の印象ではかなりメロドラマの色が強く、そこのカップリングが人物相関図的にこんがらがることはあれど、今のところは面白く見れている。当時としてはかなりカオスで斬新だったのかもしれないが、今にしてみればニコラス・ウィンディング・レフンを筆頭にリンチフォロワーな映像作家が数いる中で、そこまで破綻しているものには見えなかった。それこそ上の『妄想代理人』もかなりその線上に入る作品だと思うのだが。

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オリジナルではなく新作の方の写真だがいい写真だ。

 

あとライブに2つ行った。フジロックのため来日していたアンダーソンパーク&フリーナショナルズ豊洲公演とceroのライブイベント“traffic ”だ。前者はフジロック後の公演にも関わらず未知数の体力を発揮し、ステージを走り回り、ラップをしながら踊り、踊りながらドラムに駆け寄り、ラップをしながらドラムをするアンダーソンパークと、キーボードやギター、ドラムパフォーマンスで会場を沸かせるフリーナショナルズという、その空間が一瞬のうちに熱に囲まれるハイテンションな1時間半だった。とにかくテンションで持ってくパークにこちらもそのテンションに追いつこうとする形で乗ろうとするファンによる圧倒的なグルーブが出来ており、ここ最近でも最も高揚感のある体験だった。終わった後豊洲から山梨まで帰る帰り道でどっと疲れが出たのは言うまでもなく。後者は今年のceroの新譜が死ぬほど素晴らしく、一度生で見たいと思っていたのだが、機会が合わずワンマンに行けなかったので、その代わりにといった感じで見てきた。その日は1日あけておいたので、最初から最後まで入り浸っていたのだが、ほかのゲストのパフォーマンスもとても楽しませてもらい、特に事前にあまり調べて行かなかったのでサプライズ的に見れたSPANK HAPPYのライブは、構成から何まで全て完全に完成されたライブで、文字通り一つのパフォーマンスとして成り立たせようとしている感じがとても興味深かった。初めて生で見て、曲もかじった程度にしか今まで聞いたことなかったが、曲自体もシュールでエロティックな曲ばかりでとても面白かった。あと、何度も見ているPUNPEEのパフォーマンスはさすがで、平成の申し子的に今後も星野源と並列に語られていくべきアーティストであると再認識させられた。『MODERN TIMES』を久々に聞き返す。

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アンダーソンパーク&ザ・フリーナショナルズ豊洲にて。

 

このような感じで大学に入って初めての1ヶ月半ほどの自由な時間を過ごしていた。結局夏休みもブログはあまり書かず、文章を書くことがおろそかになってしまっているが、なんとかこのブログはどんなペースでも続けていきたいと思うので、記録として残しておく。

 

 

 

 

J・A・バヨナ『ジュラシックワールド 炎の王国』

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近年のビッグバジェット映画の中でも、抜群に面白いエンターテイメントだった。なんたってタイトルが出るまでのオープニングシークエンスの悪夢からスピルバーグ味に溢れている。デカ過ぎて全貌の見えない敵を暗闇を活かして登場させる。それは決して暗闇から出てきて姿を完全に現すわけではない。正体不明感は確実に残しつつ、暗闇を見にくさではなく恐怖として捉えている。これは明らかにスピルバーグ的な恐怖演出だ。このスピルバーグへのリスペクトを掲げつつ、今作がホラー映画であることを宣言するようなオープニングシークエンスから興奮が止まらない。

 

そこから、この映画は2部構成の前半に向かっていく。この映画における2部構成とは、要は前半の災害パニックパートと後半のゴシックホラーパートだ。前半の災害パニックパートは、完全にエンタメしたパートで楽しみながら、岩石や恐竜など、とにかく何かが降り続けるアクションで極力混乱させるような絵をなくしている。単純明快でダイナミック。とにかく生き物が一直線に走りまくり、空からは様々なものが降りかかる。黒沢清の映画ばりに導線が敷かれた演出ではないか。一律な方向に常に人、恐竜を動かすことで、全体の不気味さ、不穏さは確実に残し、舞台は後半でだいぶミニマムに変換する。

 

前半の舞台である島からの脱出に成功したあと待っているのは、後半の舞台である「屋敷」からの脱出だ。まず、この「屋敷」という舞台設定が素晴らしい。舞台となる今回の「屋敷」は部屋の多さや隠し通路、秘密の地下とホラー映画として豊かになる条件に溢れている。その中、この「屋敷」というジュラシック「ワールド」にしてはあまりにミニマムな舞台で繰り広げられる、人間と恐竜の隠れんぼとお化け屋敷的恐怖の連べ打ちには息を飲む。息を殺して隠れ続け、進みたくなくても進まなければならない恐怖。後半はゴシック的な屋敷ホラーとしても近年で頭一つ抜けてる。ジャンルとしてはアドベンチャー映画に区分されながら、それでもホラー色の十分あった一作目と二作目以来の久々の怖い『ジュラシックパーク』が見れて嬉しい限り。こう思うとやはりスピルバーグは恐怖を演出する人だったんだなと思いを馳せたりもする。

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さらにこの映画のラスト、スピルバーグが監督した『ジュラシックパーク』シリーズの最新作であるという事実よりも強調されるのは、これがマイケル・クライトン原作であるという事実だ。ラストの展開で示されるのは、「屋敷」を通過して「世界」に飛び出していく、創造物たち。人間に命を与えられたものたちの反乱を予感させるラストは同じくマイケル・クライトン原作の海外ドラマ『ウエストワールド』を連想する。もっと言えば今作のラスト、明らかに『ウエストワールド』s1の最終話のラストとほぼ同じと捉えていいと言っても過言ではない。唯一違うのは、この物語の諸悪の根源である創造主ジョン・ハモンドが映画シリーズにおいては途中退場し、創造主=伝説というような典型に当てはめられてしまったことだろう。原作のジョン・ハモンドはさらに悪役的な立ち回りを見せている。このように今作は、マイケル・クライトンが原作や自分の作品で追求してきた、創造主と創造物の関係、バイオスリラー的側面をシリーズ史上最も汲み取った作品だと言えるだろう。

 

因みに今作の監督であるJ・A・バヨナは今作が長編4本目。前作『怪物にささやく』は未見なのだが、その前の『永遠の子供たち』『インポッシブル』を見ると、今作が明らかに彼の作家性の中で生まれた作品であることは見て取れるだろう。というかほぼ今作は前半『インポッシブル』、後半『永遠の子供たち』というような構成を持ってるといっても過言ではない。このシリーズを映像として生み出したスピルバーグの恐怖演出を受け継ぎ、物語の生みの親であるマイケル・クライトンの本質的テーマに言及しながらも、完全に自分の作家性の中で、J・A・バヨナ映画にしてるあたり、正直凄みしか感じない。次回作が最も楽しみな監督がまた1人増えた。

 

Netflix『ディファイアント・ワンズ:ドレー&ジミー』

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Netflixのコンテンツ更新っぷりには相変わらず全然追いついていないのだが、これはビンジした。共にBEATSを立ち上げたジミー・アイオヴィンとドクター・ドレーの生い立ちと、現在までの活動を追う。Netflix製ドキュメンタリーというジャンルが一つ確立していると思わされるくらい、ぶっちぎりでこの手のジャンルで毎度クオリティの高いNetflixだが、今作も同じく。

 

二人の人生を通して、アメリカンポップス史全体を振り返っていく。ロックとヒップホップという違う世界にいる二人の人生が交差すると共に、ロック史とヒップホップ史も交差する様は凄まじくエキサイティングで面白い。タイリース・ギブソンfacebook投稿から始まるこの物語は、遡って彼らがどのようにそれぞれのジャンル世界に入っていき、挫折し、成功していったかを、何十人もの証言によってモザイク的に語られていく。この全体の構成の抜群の面白さと圧倒的な情報量、スピード感はNetflixドキュメンタリーの特徴であろう。因みにもう一つNetflix制作であることが活かされてると思うのは、一話一話の尺の違いだ。語るお話によってそれぞれの尺が違ってくるというのは、勿論何かを語るのに十分語りやすい場を与えているのだが、これはドキュメンタリーだけでなく、Netflix作品全体に言える、特徴であり、ドラマというフォーマットで何かを語る時の利点であると思っている。

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ドクター・ドレーとジミー・アイオヴォンの主人公2人の人生を辿っていく過程で、次々に現れる証言者も錚々たる面子だ。エミネム、ボノ、スヌープドッグ、トレントレズナー、パティ・スミストム・ペティスティービー・ニックス、ナズ、ウィル・アイ・アム、ケンドリック・ラマー…。それぞれの時代、ジャンルの代表者が、彼ら2人の人生を語っていく。ドクター・ドレーのエピソードでは完全にメイキング・オブ・ストレイトアウタコンプトン的な感じが随所に挟まれて猛烈にF・ゲイリー・グレイ監督の映画を見直したくなるのだが、彼が子供時代を、ギャングか音楽の町としてお馴染みのコンプトンで過ごし、DJに憧れ、軽くスクラッチを試していく下りは、同じくNetflix制作の『ゲット・ダウン』に通ずる世界観での話だ。そういえば、Netflixはついこの間から2パックとビギー・スモールズの殺人事件を描いたドラマ『Unsolved:未解決ファイルを開いて』というドラマも配信し始め、少し前には女性ラッパーの先駆者、ロクサーヌ・シャンテを描いた映画『ロクサーヌロクサーヌ』を配信した。なにやら最近ヒップホップに妙に力を入れ始めてるらしい。しかもそのうちどれもが面白い映像作品だ。

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一方ジミーの方も驚くべきサクセスストーリーを見せながら、彼の成功を通して、その時代のロックを含め音楽史全体が見えてくる。クラブの床掃除から聴き手として、そしてビジネスマンとしての才能を開花させていくまでが、ドレーの人生と違い血は流れないが、とてもエキサイティングに描かれる。彼は、聴き手としていい耳を持ちながら、同時にビジネスマンとしての動きにも長けていた。彼らの音楽界での成功は勿論後々の音楽、つまりは今につながっていく。彼らの物語は実話ながら、ストーリーは向かうべくところに向かっていっているようだ。それぞれ住んでいた世界も育ちも全く違う2人が、音楽という巨大なジャンルの中で、それぞれの時代を生で感じながら、最後には出会うべくして出会う。そういう意味で、これは時代を収めた、歴史記録映像だ。貴重な資料であり、物語であり、映像だ。見るべき、聴くべきものがそこらじゅうに転がっている今の時代で、間違いなく外せない作品である。

 

 

 

 

 

 

今泉力哉『パンとバスと2度目のハツコイ』

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今泉力哉の『知らない、ふたり』が物凄く好きだ。若い男女7人の恋という感情が玉突き事故的に交差して行く。そこで描かれていたのは、人を好きになること、その瞬間と理由の話だ。それに対し、今作の『パンとバスと2度目のハツコイ』では、さらに一歩進んだ恋愛論が描かれる。

 

ヒロインのふみは2年付き合っていた彼のプロポーズを、断ってしまう。その理由は、「恋」という感情を信じきっていない部分にある。

今まで付き合っていた女と私が違うってどうしてわかるの?

そんな中、彼女が劇中で再会するのは、バツイチで子持ちのかつての初恋の相手たもつと、結婚して子持ちのかつてふみを好きだった女さとみ。ここでも前作『知らない、ふたり』と同じく、お互いの好きが片思いのまま連鎖する関係である(今回の場合はものすごくわかりやすく三角関係という形で留めてあるが)。結婚という一種の契約を相手とできなかったふみの理由を、この2人が出てきたことによって、理由づけされた気がする。たもつはかつて好きだった女に裏切られ、捨てられてしまい、さとみも一見幸せそうだが、未だにふみのことを思っている節がある。結婚という契約をその人と結んだところで、その契約というのは簡単に破られてしまい、好きという感情は変わりやすい。この2人のシチュエーションこそが、ふみが結婚を踏みとどまった理由だ。

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彼女が絵を描かなくなった理由も同じところにある。恐らく絵を描くという行為をずっと好きでいられる自信がなくなったのだ。そんな中、活発な妹は好きかわからないのに絵を描き続けている。主人公は周りの人物と違い、今に身をまかせることが出来ない人間である。そんな彼女が、中学の卒業式という、何かが終わる直前でたもつにラブレターを渡し、彼の返事を聞かないまま大人になり、東京であっけらかんと暮らしているのは、とても自然だ。

男はみんなくるりの「東京」が好きだって。

そんな彼女の考え自体は、映画が進むにつれ変化し、変わるわけではない。ラスト、たもつとの未来が見えそうになる展開も、その前のシークエンスで、両思いだったという真実が明らかになるからであろう。しかし、たもつは一貫してふみと逆の考えである。好きというその感情を信じ、それを思い続ける。これは完全に『500日のサマー』の前半におけるトムとサマーの考え方だ。『500日のサマー』は運命の恋を信じる男と恋という感情を信じない女の話であった。そして彼らが映画前半で結ばれたように、ふみとたもつも恐らく結ばれるのであろう。彼らはこれから続いてくか別れるのかわからないが、ふみは少なくともその感情を抱いている今に託すのである。そこが、今回唯一主人公が変化した場面だ。主人公が今の自分を信じるようになるまでのお話なのだ。

因みに、このクライマックスの、お互いの見たいもの、見せたいものを見せてあげるというシークエンスは完全にセックスのメタファーだと考えるのだが、どうだろう。前作『知らない、ふたり』よりも一歩掘り下げた恋愛論を言及している分、男女のセックスにおける本質の、2人が一線を越えるシーンというのを描くのは避けられないが、映画全体のピュアさとカジュアルなルックを優先させた結果、メタファー止まりの演出になったのではないかと考えた。彼女の家に泊まらせてあげるというのも、とても意味深だと思う。セックスを描くことなく、本質的に男女が一線を越えるシーンを演出しているのだ。

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勿論、映画としてのルックも今回は抜群。夜のシーンにはしっかり風を感じるし、洗車のシークエンスのキマリ具合には痺れた。「何にもないところにこそ、本当のことはいつも転がっている」というようなことをライムスターの宇多丸さんがタマフルのなにかの映画評論の時に言っていた気がしていたが、まさにそのことを体現した映画と言えるだろう。人と出会い別れ、洗濯機が壊れるだけの人生が、どうしてこんなにも豊かに見えるのか。ラストのLeolaの主題歌まで、本当に素晴らしい恋愛映画であった。

永遠も約束もこれからも

頼りには出来ないの

それでもね君にまた胸焦がすの

是枝裕和『万引き家族』

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滅茶苦茶に痺れた。オープニングのタイトルバックから今までの是枝作品と一味違う。このタイトルが出るまでのシークエンスだけで示されるのは、それまで何度このことを繰り返してきたんだろうというとてつもなく長い時間と積み重ねだ。アイコンタクトとコンビネーションによって万引きがなされていく冒頭だけで、彼らの目に見えないが強固な繋がりを示している。そこに説得力が現れるのはやはり是枝作品特有の「時間を感じる」演出だろう。

彼らの過ごした時間、そしてそれによって築かれた強固な繋がりは、それよりもさらに強い「血縁」という事実によって打ち壊されていく。血縁か絆かという問いはもう既に『そして父になる』で通過済みではあるように見えるが、今作ではその「絆」という綺麗な言葉では誤魔化しきれないほどの、彼らの厳しい繋がりと現実がクライマックスで剥がされる。

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このクライマックス部分は是枝作品の中でもとても異色な場面だと言える。今までの是枝作品は、彼らの関係性を最初に示してから、彼らの積み重ねてきた時間を、実感のあるセリフや仕草によって演出し、説得力を与えていく。しかし、今回は順番が逆で、彼らの実感が全編にわたって描かれ「どう見ても家族」を演出しておきながら、クライマックスで「誰も家族ではなかった」という残酷な真実が観客に明かされる。彼らの身元が明らかになっていくクライマックスは、まさに「三度目の殺人」以降の是枝作品というか、サスペンス的な見せ所が十分用意された演出をしている。彼らが今まで取り繕ってきた関係、時間を、なかったものとして彼らに、そして観客に突きつける高良健吾池脇千鶴の「きみはいい子」コンビの演技も秀逸。

 

信じたくない現実に目を瞑り、信じたいものを見ようとする。このあたりも是枝作品の特徴だと言える。「誰も知らない」の子供達、「歩いても歩いても」の原田芳雄樹木希林、「海よりもまだ深く」の阿部寛。今回の家族たちの家族であろうとする動機の一つがまさにそれである。お互いの孤独、疎外感に反発して人とのつながりを求める。彼らが見たいものを見ようとするというのは、駄菓子屋の祥太の万引きが実は主人にバレていたシーンや見えない花火を見るシーンなどの様々な視点によって示される。この映画は視線の映画でもある。最初のスーパーでの万引きもアイコンタクトによるものだった。亜紀と四番さんの風俗での見る、見られるの関係、海のシークエンスの家族を見つめる樹木希林。様々なものを見る、つまり視線が常に前を向き、何かを見たいと願っている。つまり、この映画で視線の先にあるのは理想、希望だ。だからこそ、樹里が何かを見るラストカットが辛く切ない。観客に彼女の視線の先が全く映されないのは、とても象徴的な視線の表現だ。是枝作品の中ではストレートすぎるほどの演出である。いつも通りの是枝作品らしい実感の積み重ねから、映画的飛躍をし、現実を突きつけながら頑なに視線によって包み込む。これまでとは一味違うながらもやはり涙腺が緩んでしまうのだ。

 

そういえば、先日Spotifyを開くと既に細野晴臣の本作のサントラが。死ぬほど素晴らしいインストアルバム。最近の作業BGMはすっかりこれかカニエウエストだ。因みにそのあと、久々にitunesで「風街ろまん」も聞いていた。はっぴいえんどはいつまでも最高である。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェス・アンダーソン『犬ヶ島』

中学の時にレンタル屋でなんとなく手に取った『ダージリン急行』からすっかりファンになってしまったウェス・アンダーソンの新作。今年一番くらいの期待はもちろん、日本が舞台ということもあれど、これほどの規模と広告でウェスの作品が公開されている感慨で見る前からいっぱいだったのは事実だ。

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彼の一目見れば分かる作家性は今回も健在だ。シンメトリーな画面構図、凝りに凝ってるブランドの衣装と小道具、固定カメラと横移動、抜群の音楽センス。今回、一番の特徴であろうメガ崎市の造形、そしてOPの和太鼓のシークエンスですら、全てシンメトリーである。その中、繰り広げられる少年と犬、外と内の物語は前作『グランドブダペストホテル』以降という感じの活劇性とメッセージ性に溢れていた。

まず冒頭、このウェス・アンダーソン的日本世界の説明から始まる。ここの、全く知らない新しい世界に放り込まれる感覚は、『スターウォーズ』や『ブレードランナー』を初めて見た感覚と似ていると言ったら過言ではあるが、それに近い高揚感を感じた。このオープニングシークエンスで語られる伝説は、その後の展開の伏線でもありながら、ここで既に、拒絶による暗部と英雄的活躍という物語テーマが語られる。つまり、この映画はこういう話ですよというのが、冒頭で既に語られるのである。

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この映画における犬は人間と同じようなコミュニケーションや価値観を持っている。この部分が、クライマックスにかけての結論である種の危うさは抱えているのだが、それによって、犬に代表されているのは異人であるだろう。自分たちと全く違う文化や習慣を持っている「人」として描かれている。それはメガ崎市の学生運動家の中の留学生や、そもそもウェス・アンダーソンというテキサス生まれのアメリカ人が日本を描くという企画そのものからも感じ取れるだろう。今回それを描くことによって、それに対する拒絶と和解、そしてあるべき世界が示されている。このことから、実はメッセージとしてはものすごくわかりやすいものを描いているのではないかと感じる。

今回の犬と人間の関係はギブアンドテイクにも思える。犬はご主人様を必要とし、そのご主人様となる人間を守る。ここでは拒絶に反発するように、繋がりが示される。

君が僕を守ってくれるんだね。

アタリ様、聞こえますよ。

この一連のアタリとボディガードドッグことスポッツのやりとりには、通信機を通した声を聞いた途端にこぼれ落ちるスポッツの涙を見ても、明らかに犬が与えられ、それに対して人間に返していこうという一連のやりとりだ。ここで、側からみれば完全に犬と人間の上下関係ができてるように思えるが、ここで重要になるのは触るというアクションだ。

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犬たちはドッグ病の流行により、犬ヶ島に隔離される。前述した病院のくだりでもアタリが犬に手を舐めさせたのを注意する場面がある。後々このドッグ病というのが、犬に悪意を持ってる小林市長とその一味が計画した陰謀だということが明らかになる。つまりこの映画において、犬と人間の繋がりを強く感じさせるのは、犬に触れるという行為なのだ。そしてそれこそが、犬を自分たちと同等に扱うという意味になる。一緒に暮らしていけるものとして認められるのだ。だから、偏見のないアタリは犬ヶ島に愛犬を探しに行き(ここの冒頭の、スポッツが島に移送されるときの、アタリを陰として写す演出も痺れる)、チーフと心を通わすのもハグや頭を撫でるという行為だ。ここの触れ合いこそが繋がりのサインであり、これを全ての人間ができるようになるまでのお話なのである。だから、結局犬と人間の主従関係は変わらないのかというのは違って、あのラストで犬と人間はお互い平等な立場になれたのではないかと思う。

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ウェス作品でもう一つ特徴的なのは家族の物語(特に父子のお話)が多いことだが、今回はその要素が薄いと思いつつも、やはり様々な形で描かれている。アタリは小林市長の養子という、血の繋がってない親子であり、また、アタリとチーフの間にも途中保護者と子供的な関係に見えなくもない。このあたりくらいだが、感動的なのは、最後にはしっかり血を分けた親子になるということ。特に前者はものすごくわかりやすい形で、繋がりを作る。ここの手術シーンの渡辺謙が素晴らしいのだが、この展開は無理矢理ながら涙腺を刺激させられる。

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基本的に、この作品で楽しむべきはやはり世界観と、シーンシーンのエモーションではあると思う。人形アニメであるのに、今回特徴的に何度も映る泣き顔には生の感動を感じる。ナツメグとチーフのシーンも素晴らしい。そこにはないピンを回すナツメグとそれを想像するチーフ。スカーレット・ヨハンソンの声が素晴らしいのか。エモーションを増す回想シーンの入れ方などは前作までよりもかなり進化している部分なのではないかと思っている。とにかく毎シーンごとに謎に涙腺を刺激されるのだ。

そこの部分と世界観がよく出来すぎているだけに、クライマックス周りのあっさり加減と物語のテーマ含めシンプルすぎる感じは少しだけ食い足らなさを感じたのも事実だが。もう一捻り何か『グランドブダペストホテル』のように決定的な仕掛けがあったら100点だった。しかし、これだけのオリジナルの世界を味わえる映画も最近あまりない。そういう意味では、遂にウェス・アンダーソンの中で、アイデアを前面に出してこれだけのものが撮れると証明されてしまった作品にもなっているだろう。もはや職人的余裕すらも感じさせる天才のネクストステージ。必見だろう。

 

cero『POLY LIFE MULTI SOUL』

音楽に疎かった中学生の自分がceroと出会ったのはやはり2014年の年末「orphans」のMV。多分一番最初にしっかり触れたシティミュージックだった。歌というよりも音を聞いてる感覚。楽器のアンサンブル。そして圧倒的な東京の夜明け。魅力はいくらでもあるが、個人的に最大だったのが、リリックの青臭さだ。ポップミュージックとしてスマートなサウンドを打ちながら、聞いたことない音の重ね方のなか、そこに乗るのが、小さくなりすぎず広がりも見せつつ、しかし青臭いリリック。このバランスの単純なかっこよさとユニークさが病みつきになる。そして、それは今回の『POLY LIFE MULTI SOUL』でも同じ感覚を覚えた。

同じ感覚を覚えたとは言えども、アルバム自体は、一目瞭然明らかに今までのよりも変わっている。偏に2016年の古川麦小田朋美、角銅真実という新メンバー参加も影響してるのかもしれない。また、公式サイトの磯部涼によるインタビューにはこんなことが書いてある。

ライヴをやってる時に、自分の目の前にダンスが上手な子がいて、「でも、多分、次のセクションでリズムが変わると動きが止まっちゃうな。この子がちゃんと最後までダンスを踊れるようなアレンジにしたいな」みたいなことはよく考えてました。だったら、もうちょっと踊りやすいアプローチに変えようって感じで調整していったんです。

要は、今までディアンジェロをはじめとする様々なアーティストのオマージュやテイストでやってきたことを、今回は無理に持ち込まず、ポップミュージックを作ることに専念している。この柔軟性こそが、所謂渋谷系などのくくりにされていない、ある種の魅力であり強みなのかもしれない。全てを飲み込む「都市感」には具体的な場所は示されていない。それはorphansの歌詞にも。

(別の世界では)
2人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし)
砂漠に閉ざされていても大丈夫

今回のアルバムの話に戻る。今作は「聴きやすい音楽」を求めながら、「今まであった音楽」でも、「大衆向けの音楽」でもない。サウンドのユニークなトラック、楽器とリリック。凡庸な言い方になるが、常に「新しさ」は欠落しないまま、しかし、それでいて本人たちは決して、他アーティストからの引用を隠しはしない。誠実すぎる。再び公式サイトからの引用。

ミーハーな話ですけど、フランク・オーシャンの「ムーン・リバー」みたいなギターっていいなと思って。最近のエッジな音楽って、ああいう朴訥としたポロン、ポロン、みたいな演奏が少ないじゃないですか。それでいて、あの曲のギターには新しい質感があったから。あと、はしもっちゃんを改めてギタリストとして使うのは面白いなと。

この文から感じ取れるのは、学生のバンド感だ。自分でミーハーといってしまうあたり、そして、聞いた音楽にすぐ影響され、自分の音楽に受け継がれて行くところ。映画で言うところの、タランティーノが映画を作っているような感じだ。その彼らの「音楽づくり」における好奇心旺盛な若さが、全体を包む謎の青臭さに繋がっているのか。

天を仰ぐ 喉の奥を
鼻血が伝う
手の平を真っ赤にして 飲み干したジュース

Floating on water たゆたう フレグランス
心のない 動物たちの口づけ

二曲目の「魚の骨、鳥の羽」の歌詞の一部を見てみても、イメージ的に「鼻血」「飲み干したジュース」「口づけ」とどこか未成年の香りがするワードが散りばめられている。歌の歌詞は具体的な方がよりグッとくるとはよく言ったものだが、ceroのリリックはイメージの連なりの中でエモを増して行く。

忘れたくない

今日の陽の光の塩梅
二人だけの約束したい
いつか大人になるその日が来たとしても
Don't Tell A Lie
「忘却(レテ)の水は飲まない」

さあ急いで

1日は日没から始まる

ダンスパーティーにはまだまだ間に合うさ

「レテの子」ではこれがモラトリアムな時間だということが明かされる。時間が経っても、あの頃にしがみつきたい、離れたくない。都市のモラトリアムと言ってもいい(90年代前半)。

そしてもう一つ、全編のリリックを通して特徴的に聞こえるのは「水」のイメージだ。10曲目のタイトルは正に「Waters」。

踊り出す都市(まち)の灯が 川面に射つステレオグラム
クラゲのように薄く眺める
やがて瞼を閉じて そのままうろついてみた
水しぶきが鼻をかすめる

ここで描かれる「水」と「都市」は完全に移りゆくものの象徴だ。そう、このアルバムは全体を通して、変化のイメージを歌っている。水、都市、子供から大人へ、音楽、そしてcero自身。変わり続ける彼らの4thアルバムであり、現状の最高傑作であろう『POLY LIFE MULTI SOUL』は通過点に過ぎないのかもしれない。